私が彼と出会ったのは、進級して小学三年生にあがった時だった。
あやとりがうまく、折り紙も上手で、音楽が好きで、歌も音楽教師を惚れ惚れさせるような少年だった。
ただ、首から下に麻痺を患っていて、身体を自由にうごかせないらしく、楽器は口笛しかできなかった。
でもその口笛は切ない音色で、楽器を引きたくても自在にひけない哀愁を漂わせていた。
私が彼についてまっさきに思い出すのは、美化されたこうした思い出だ。
以下の内容は、本当は語るべきでないけれど、胸に閉まっておくには重過ぎるので聞いて下さい。

彼は哀れな人だった。
彼はその不遇な身体のハンディをクラスメイトにあざ笑われ、
活発に活動できない体のため、男子同士との友好も暖められず。
喧嘩をしても真っ向からぶつかりあえない為、
怪我をする前に自分が正しくとも謝る、という事ばかり学ばざるをえなかった。
だからだろうか、彼は気弱になっていってしまった。

小学五年の頃、四年からかわっていた教師が彼をいじめだした。
教師は娘の離婚で気が立っていて、彼を事あるごとに殴り。時に首を絞め。
張り倒した拍子に頭をぶつけて出血する、なんていうこともあった。
彼へのイジメが、クラスメイト達からの暴力にまで波及し、
彼が暴力をふるわれた夜には、私はママに泣きついた。

一年間もこういう生活を続けさせられた彼は狂った。
彼に向けられた悪意は、彼の中で蓄積していたんだろう。
小学生六年の時に彼は復讐をはじめた。
まず、自分をいじめていたクラスメイト達に意図的に近づき、
「ゲームを貸してくれたら一日千円払う」と言い出した。
私は偶然それを立ち聞きして、彼はお金で歓心を買おうとしだしたんだと思った。
それでイジメがやむならいいと思った。
でも、ママには相談した。
そうしたらママは怖い顔をして、「けっしてその話は誰にもしてはだめ」といった。
多分ママには、そのときには私の大好きだった彼はもういなくて、
悪意の塊で人間を信じずに憎む怪物になったことを、察知していたんだろう。

事実、彼は怪物だった。
イジメっ子達は、小学生でありながら学友を恐喝した事を公にされ、立場を失った。
彼のイジメられっ子という立場は、そのあまりに常軌を逸した事態に消えてなくなり、
哀れな被害者という立場になった。
彼へのイジメはやんだ。

彼はいった。
「あいつら嘘を言ってるんだ。ゲーム一本借りるのに千円なんて払えないよ。
 第一、『千円払う』なんていってたら、一ヶ月以上も借りたりしないよ。
 あいつら僕をなぐっていったんだ。『四万円もってこなかったらもっとひどいぞ』って」
彼の嘘には真実味があった。
なぜなら、彼は勉強はよくできたから、賢い子であるというのは学校の認識だった。
そういって胸をはだける彼の腹部やわき腹には、青あざがいくつもあった事が、決定的な証拠となった。
それは教師含め、彼をつい先日までいじめていたもの達がつけたものだった。
だからこそ悪魔の論理は、大人も子供も、真実を知っている私とママ以外は信じる事となった。

でも、もう遅すぎた。加害者はやってはいけない事をした。
私が彼に恋したのは、地面を這う蟻ですらも踏んではかわいそうと下をみて歩く、
そういう純粋な優しさが、クラスどころか学年に一人位しかいなかったところだ。
でも彼は、以後下をみて歩かなくなった。彼は蟻を何匹踏み殺したろう。

私は、真実を語るべきではないかとママに相談した。
しかし、けっしてしゃべっては駄目だとママは言った。
今は私も理解できる。一度壊された人間の心は、もう元には戻らない。
あれほど優しかった彼が、こうならざるをえなかったからには、彼には復讐を遂げる権利はある。
ただ、ママの考えは多分私とは違ったのだろう。

その後そのイジメッ子達は、小学校の頃の悪行を理由に、エスカレーター式の母校を相次いで退学になったが、
それは彼の責任ではないと思っている。
なぜなら、掘り返される理由は他でもない本人が(正確にはそうともいいきれないが)作り出していたし、
それに彼の嘘は、彼が心身に受けた傷の万分の一にもならないと、私は今でも思ってる。

けれども、最後の一人が高校一年の頃、
煙草所持一回で(普通は、一度目は有限停学、二度目は無期停学(復学あり)、三度目で退学)退学となった時。
退学処分を言い渡されるだけのために、親とともに学校にきていた様子を、
遠巻きに観察していた彼の表情は忘れない。
歯をむき出して、目を爛々と輝かせ、嘲りの笑みは、まさしく悪魔そのものだった。

ここまで書くと、私の事をストーカーだと思うだろう。
そう、私はストーカー。
思いを告げようと思った相手が殺されて、中身が別のバケモノになって、
それでも元に戻らないかと、初恋をそのときまでずっとひきずっていた。
でもあの表情を見たとき、それは土台無理なんだと悟った。
一週間学校を休んで毎日泣き腫らした。
ママは、小学生の頃のように私を慰めてくれた。

彼は役目を終えたというように、高校二年の頃から成績を維持する努力を放棄し、大学への進学は諦めた。

私が彼と再会したのは、大学を卒業し、家族を持った後。
元担任の家でおこなわれた、小学校の同窓会に出た時だ。
私が出席していたのは、彼の復讐がまだ終わっていないと思ったからだ。
だから、それまでの同窓会も毎回出席していた。

そして、軽く飲んだ酒で酔ってしまい、担任の家の庭で酔いを醒ましている時、彼の姿が目に入った。
剣道の防具をいれる長い袋を背負っていた。
彼は凄く上機嫌で口笛を吹いていた。曲は賛美歌第ニ編191番だった。
私が中学高校と所属していた聖歌隊で、よく歌っていた曲だった。

彼は庭に入ってくると、私の目の前で長い袋の紐をといた。
そして私を見るなりにっこり笑い、「よかった」と私に告げた。
刀の柄が袋の端からのぞいた。どういうことかと聞いた。
「君のママが、僕のママに全部話してたんだ。君が凄く心配してたよって、桃組の頃から」
桃組というのは、小学校4、5、6のクラスだ。
「でも、ごめんね。ずっと待ってたんだ。あいつらが全員、立派に大人になるのを。
 それを見て喜ぶあいつの目の前で全員殺して、それからあいつの節々一本づつ切り落とす。
 君にだけは見られたくないから、帰って」
彼はうつむいて涙を流した。
「よかった。君をどうやって外に連れ出そうか、困ってたんだ。
 やだやだやだやだ見られたくない」
膝が震えて、その場に私は崩れ落ちた。
彼は一部だけ正気をもっていたんだと、この時気づいた。
私に今のような自分の姿を見られるのを恥じている彼は、自分の罪深さを理解していた。
それでもやめられないから苦しいんだろう。彼の渋面は、間違いなく苦悩をかかえた人間のものだった。
防具袋を下ろした彼がその紐を解くと、短刀の柄も沢山みえてきた。
彼は私以外、あの時のクラスメイトと担任全員殺すつもりとしか思えない。
「なんでそんなに」と聞いた。担任ならわかるけど。
「あいつらいきなり僕に味方したろ。許せない。それまで笑ってみてたくせに」
彼の想いは理解できた。
でも、彼がやろうとしている事は、あまりに凄惨でいけないことだ。

私は竦んで硬直した身を奮い起こして立ち上がり、とおせんぼした。
彼は寂しそうにうつむき、私をおしのけようとした。
彼のハンディキャップを考えれば、信じられないほどの力だった。
並の成人男性が本気でどのくらいの力がでるのか、味わった事はないが、
多分それ以上にはあったんじゃなかろうか。
「私が全部払ってあげるから、やめて」
私は思わずそういった。
「なんで?君を殺す理由ないよ。愛してるんだ」
狂人の口から『愛してる』なんて言葉をきくとは思わなかった。
でも彼にとっては、小学生の頃に勇気が出せなかった唯一の味方でも、
たった一人の大事な想い人になりえたのだろう。
「私、結婚してる。でも〇〇君のなら、子供を産んであげる。
 あなたの大切な子供を、あなたの分まで幸せにしてみせるから」
愛してると言う言葉が本当ならと、私はこの言葉にかけた。

彼は両手で自分の頭をがんがん叩きはじめた。
それから頬に爪をたててざりりと嫌な音を立て、爪が皮膚にもぐりこみ、血が伝いだした。
「変だな。起きない」
彼の異常が目立ちだした。まるで子供のような直情な仕草だ。
「もう休んでもいいじゃない。私が働いてあげるから、主夫になってよ。ね?」
思いつく限りの言葉を並べ立てて気をひこうとする。
とうとう彼は刀を抜き。尖端を自分太股にぐさりとつきたてて、
「おっかしいなあ」と言い出した。
小さな頃の、ハンディキャップをせおって身体を満足に動かせなかった彼は、そこにいなかった。
心の中に生まれた憎悪の炎。たぶんそれをずっと燃やし続けて、他の人より何百倍も努力したのに違いない。
人を殺すのに十分、彼は刀を扱えていた。
あまりに哀れである。こんなになるまで、誰一人彼にイジメたことを謝らなかったのだ。
復讐されるその寸前まで、そして今も、私の後ろの建物の中で、自分は善良な市民を装っていたのだ。
生徒をやつあたりで負傷させ、イジメたその教師との歓談に耽りながら。

思わずかけよって刀を抜かせると、流れた血がズボンに染みてゆくのを必死に手で押さえた。
「離婚して、あなたと再婚する」
「俺にもわかる。おまえがかわいそうだ」
口調がまったくかわって、一人称もかわった。
円らな目が細く鋭い輝きを放って、声も低く、唸るような響きを持った。
これが多分、あの嘲りをやってのけた、彼の異常そのものだと瞬間的に理解した。
彼の壊れ方は、一般的にいえば、二重人格として知られるものだったようだ。
だとしたら、外部の脅威に対抗するために作り出された人格は、凶悪であるはず。
そうあるべき、凶悪としか思えない彼の目から、粒の涙がこぼれた。
そのまま泣き崩れると、彼は号泣した。
皆がその声を聞いて驚いて出てくる前に、私は彼の荷物をもとどおりにまとめて、彼をつれて実家に向かった。

私がこの話をせざるを得ない理由は、私も辛いからだ。
私は不倫し、そして縋る夫を捨てて、他の男と同棲を続けているアバズレと見られている。
まだ離婚は成立していない。
事情を知らない者達からみれば、私が悪いとしか思えないのあたりまえの事だ。
しかし、本当のアバズレは私のママだ。
彼女は担任の娘婿とW不倫し、担任が狂うきっかけをつくった。
彼女の父、私の祖父が途方も無い大金持ちだったから、
担任は声高に非難して職を失うか、黙って先生を続けるかを選ばされたらしい。
このことは、ママが私の大学時代にまた不倫をして、その前のものと合わせてパパから語られた。
ママの罪が担任を狂わせ、担任の罪がクラスメイトを狂わせ、
そして最後に、その全ての狂気を彼一人が、まるで帳尻あわせのように背負わされた。